400年前。香川県で漢学塾を営んでいた一族の話です。

連れ合いの実家は歴史の古い家で香川県で漢学塾を開いていたといいます。
連れ合いは亡くなるまでその家の歴史を調べていました。つくられた資料は殆どが手書きでしたが、先日、ワープロで仕上げていた原稿を見つけました。これの4分の1ほどをOCRで読み込み、見失わないうちに(引越準備中で取り込んでおります)ネット上に揚げておきます。この度は時間の都合で作業が途中までとなりましたが、逐次更新してゆくつもりです。

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題名 
蟹名(かんにや) 塾の歩み

「我が祖先ハ三百二十余年前、今ノ地二移り、代々漢詩ニ長ジタル故寺小屋ヲナス」(大野家32代・品三郎 順啓「墓来記」昭和6年1931年4月著)とあるように、大野の祖先が遠田に来住し、漢学塾を開いたのは、 かなり古く、伝えられるところでは、慶長(1596~1614年)の中ごろとされている。今から400年 近くも前のことである。

なぜ、慶長の中ごろなのか、なぜ遠田なのかについても、いくつかの言い伝えがある。しかしそれらの詳細な記録は、明治28年(1895年)大野家31代当主・7代目市三郎を襲名した俊介、32代・品三郎順啓 父子の東京転出の際、菩提寺である山田下村法専寺に預けた古文書・古記録・漢籍のすべてが、その後の法専寺の失火で焼失してしまったため、残念ながら今はほとんど残っていない。わずかに残った資料と言い伝えにもとづいてそれらを後づけるしか方法が無いのが実状である。


まず、なぜ慶長の中ごろなのか、については、その少し前からの大野一族の動向から述べておく必要があろう。「 大野城は大野村に在り、大野大炊助・居る。 大炊助は、 中御門中納言家成が四世の裔・藤新大夫有高の末葉なり。元暦の時に方り、屋島の役に功あり。因りて食邑を大野に受け、故に大野を以て氏と為す。 豊公の 南征に及んで遂に邑を失ふ也」

文政11年(1828閏年)に著された中山城山の「全讃史」にもこう記されているが、大野の祖先が遠田郷に来住するほんの少し前、天正中ごろの大野一族はこのような状況のもとに置かれていた。

●天正9年(1581年)四国大凶作 

●天正10年(1582年) 冬10月 長曽我部元親来撃。 大野城をはじめ、初代有高、2代光高、3代光忠 らの創建と伝えられる城の周辺にあった大野石清水八幡宮・浄福寺・極楽寺・仲楽寺・眞楽寺・薬研堂等・ 大野氏ゆかりの神社・寺院・建造物にいっせいに火が放たれて炎上・焼失。先祖代々の墓地・墓石にいたる まで徹底的に破壊されたという。 「大野系図」直常の項に記されたがその経過と結末を端的に示してい る「我兵拒戦不利 直常度我力不能敵也。 乃以城属元親焉」

●天正13年(1585年)7月15日 秀吉の命により所領没収。 長曽我部元親にかなわぬまでも最後まで 抵抗した十河存保を除いて、長曽我部の軍門に降った者・和を講じた者、すべての領主がその所領を没収さ れている。没収日の7月15日というのは秀吉と元親が和議を結び、土佐一国のみを元親の領有とするとし た日であるが、讃岐国内の所領没収は、すでにこのとき終わっていたようである。「大野系図」では所領没 収を6月としてつぎのように記している。「6月、仙石権兵衛尉秀久就封於讃州。 乃以為直常党元親。遂没収其邑城也」


●天正14年(1586) 5月27日 (現行に直すと7月13日) 19代大野城主・大炊祐直常、軍兵に襲われて居城内で殺害される。記録によると当日八ツ半(午后2時20分ころ) 幼い末娘と入浴中に(行水のようなものであろう) 襲われて幼い娘ともども斬殺されたという。

これをみてもわかるように、わずか5年ほどの間に嘉応2年(1170年) 初代有高が大炊介の官職と食邑として、大野郷(鹿ノ角、三名、一宮、寺井、大野、浅野の6か村)を賜って大野に城を築いてから415年も続いた大野一族を根幹からゆるがすような大事件がたてつづけに起こったのである。 一族の受けた衝撃の大きさがどのようなものであったかは、およその察しがつこうというものである。まして秀吉の四国平定から10カ月、所領没収から1年近くもたって、ようやく平穏な日常をとりもどしつつあった矢先である。残された一族の者にとって直常殺害はまさに大事件であった。

大祐子 次郎祐直忠 (遠田大野の祖)は権之佐直秀・四郎大夫直為らの幼い子供と内室を伴って、その日のうちに大野の地を逃れ、山田上郷の山中に身を隠したという。大祐常直常の子で次郎祐直忠の弟にあたり病弱で日頃床臥すことの多かった次郎大夫直政が、自らの身の危険もみず大野の血筋を残さんがため、兄一族の逃亡を強力に訴えたためと伝えられている。嘉永年間(1848〜1853年)に浄書された「大野家記」にも「直忠 族ト謀ヒ山田郷ニ身ヲ忍ビシモ、ノチー子権之佐直秀ニ世ヲ譲リ 遠田郷ニ来タリテ 住居ス」と書かれている。

では、なぜ、大炊祐直常が襲われたのか。

 「大野系図」はその背景をこう説明している「或伝、当是之時、十河存保之兵強於讃州。 始直常興存保相善也。 直常有良馬絶愛之。存保乞之者再三、而不興也。存保怒遂挙兵来襲。殺直常其城邑而去也。未知其実否也」 
「あるいは伝う」という冒頭のことばと「いまだその実否を知らず」という結びの言葉をみると、このような ウワサが当時から流れていたと考えられるが、天正13年6月以降、讃岐は仙石権兵衛秀久の治世下にあり、十河存保は東讃の一部2万石を領有した小藩主にしかすぎない。いわば、仙石秀久の支藩ともいうべき存在である。 この十河存保が仙石秀久をさしおいて、かれの治める大野に兵を向けるとは考えにくい。とすれば襲撃の主は秀吉の意向を汲んだ仙石秀久をおいてほかにない。かりに十河存保が兵を向けたのが事実であったとしても 、それは仙石秀久または秀吉のさしがねによるものであろう。良馬云々は単なるこじつけにしかすぎまい。 とにかく直常の存在が邪魔だったのである。まずそう考えるほうが自然であろう。

そのうえ仙石秀久は単純粗剛・暴虐の行いが多く国人は怖れてなじもうとしなかったといわれる人物 であった。領民に対する治世態度や、島津勢との戦いで大敗を喫したお粗末な軍略にもそれらはみてとれるが、 なかでも讃岐の人びとを畏怖させたのは 安原甚太郎ら12名のハリツケ、年貢米不納を計画した首謀者13 名の釜煎りの処刑であったといわれる。

安原善太郎は香東郡の安原山(香川町・塩江町の町境一帯)の山主で香西家ゆかりの者であるが、この安原山はまた大野の同族・香西伊賀守佳清一族の隠れ里といわれたところでもある。 所領没収の執行者であった仙石秀久は、その執行方法が乱暴であったためか逃げ隠れする者が絶えなかったといわれるが、香西佳清の一族も所領没収時の暴虐な対応を避けるため安原山へ逃げ込んだのである。仙石秀久は、これをかくまった山主の安原甚太郎をはじめ12名を捕らえ、居城のあった聖通寺山のふもとでハリツケの刑に処しただけでなく、秀久に反抗して一揆を起こした農民100余名すべてを斬殺してしまったのである。先述したとおり、香西伊賀守佳清は同族というだけでなく、大野・香西両家は、元暦の昔から400年もの間、代々の当主が相携えてともに戦ってきたいわば歴代のいくさ仲間、そのうえ嫁のやりとりをする親戚でもあった(一族の者が建てた直常の供養塔の名にも大野氏・香西氏・高尾氏とあって香西氏の名が刻まれている)。その香西の一族が難にあった以上、次は大野直常が狙われたとしても別に不思議ではない。

記録には書かれていないが、次郎祐直忠次郎大夫直政兄弟も軍兵乱入の際ほとんど瞬間的にそう思ったに違いない。あわただしい打ち合わせののち、次郭祐直志の一行は早々に大野の城を後にした。大野に残った病 弱の次郎大夫直政、元服前の末弟・内蔵丞直国らが、東山時代に作られた「足利諸家紋帳」にも載っている 「下り藤に三階松」の大野本流の紋を使わずに、直志・直政直国の祖父で甲斐武田本家の一族からの養嗣 子(入り)であったとされる旧姓武田半次郎利直の紋所「武田菱」を使うことを決めたのも、「大野系図」と は別に「武田系図」まで作ったのも、このときの打ち合わせの結果であろう。 遠田に来住した次郎祐直志の家 にも、大野に残った次郎大夫直政の家(現在の多肥大野家)にも「大野系図」とは別のまったく同じ内容の 「武田系図」が残されているのは、この間の事情をものがたっているように思われる。

しかし、直忠直政・直国が恐れていた仙石秀久も、直常殺害から4カ月後、天正14年(1586年)9 月末には秀吉の命により 島津勢と戦うため、四国勢5000余人を率いて九州に出兵、12月12日豊後国 利光川、戸次(つぎ)の戦いで無謀な軍路によって島津勢に大敗。 十河存保・香川民部少輔・安肥前守 ・羽床弥三郎らをはじめ将兵1000余人が討死した。このため秀吉の怒りを買い、所領没収、高野山蟄居の 身となった。

仙石秀久のあとを受けて天正15年1月、讃岐の新領主になった尾藤左衛門知宜も在讃わずか1カ月で九州 に出兵を命ぜられ、寺社よりつのった軍とわずか3000の兵をひきいて参戦、羽柴秀長の配下として島津 と戦ったが、4月日向国の根白坂の合戦で秀吉の怒りにふれ所領没収。 わずか4カ月間の領主であった。


つづく

🐡次回更新は11月頃を予定しています

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